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フレデリック()はアメリカ合衆国メリーランド州中西部の市である。メリーランド州内の郡では面積最大であるフレデリック郡の郡庁所在地である。フレデリック市は、ワシントン・ボルティモア・北バージニア複合統計地域の一部であるワシントン・アーリントン・アレクサンドリア統計上都市圏(デラウェア州、バージニア州、メリーランド州、ウェストバージニア州に跨る)の外側にある。2010年の国勢調査では、市の人口は65,239人であり、メリーランド州ではボルティモアに次いで2番目に大きな都市となっている。 フレデリックには主に一般航空輸送に供するフレデリック市営空港があり、他に郡内最大の雇用主であるアメリカ陸軍の医療・細菌戦研究施設フォート・デトリックがある。また、郡内では2番目の雇用主であり、国内では最大級のソーラーパネル製造者BPソーラーもある。 == 歴史 == 「フレデリック・タウン」は1745年にダニエル・デュラニー(土地投機家)が都市計画を作り〔See for example the ''Overall history of Frederick'', pp 2-6.〕、ドイツのラインラント・パラティネイト出身の若い改革派学校長ヨハン・トマス・シュライ(1790年没)に導かれたドイツ人移民集団が入植した。シュライは妻のマリア・ウィンツと共にメリーランド植民地にやってきていた。彼等が建てた町で最初の家屋は、20世紀に入ってもミドル・アレーとイースト・パトリック通りの北西角に立っていた。開拓地はキャロル・クリークの岸にダニエル・デュラニーが承認した土地の上に建設された。それから3年の内にこの開拓地はフレデリック郡の郡庁所在地になった。フレデリックの町の名前が何に因んで名付けられたものかは明らかでないが、第6代ボルティモア男爵フレデリック・カルバート、プリンス・オブ・ウェールズのフレデリック・ルイス、およびプロイセン大王フレデリックが可能性の高い者達である。歴史史料の多くはフレデリック・カルバートを支持している。 開拓者集団の指導者としてシュライの最初の任務は、ドイツ改革派教会(今日では福音主義改革派教会、キリスト合同教会と呼ばれる)を設立することであり、また普遍的な公共教育を後援するドイツ改革派教会の伝統を保つために、即座にその建物を公立学校として機能させることだった。18世紀遅くには多くのペンシルベニア・ダッチ(ペンシルベニア植民地に入ったオランダ人移民)が西方への移住の途中でフレデリックに入ってきた。フレデリックは「グレート・バレー」(シェナンドー渓谷など)を抜けて西はノースカロライナのピードモント台地に至るドイツ人移住ルートの1停止点だった。 フレデリック市は植民地時代から主要な交差点として機能した。フレンチ・インディアン戦争の時、イギリス軍のエドワード・ブラドック将軍はフレデリックを通って西に向かい、デュケーヌ砦近くで運命の待ち伏せに遭った。アメリカ独立戦争のとき、この交差点を支配するために、イギリス軍はこの町にヘシアン(ドイツ人傭兵)1個連隊を駐屯させた(その兵舎が今でも残っている)。シュライ家はアメリカ独立戦争のときの活動家であり、ある祖先は1714年のパルマの戦いで高い位を持っていたというドイツでも軍人一家だった〔Calvin E. Schildknecht, Draft Genealogy (and supporting documents): Thomas and Margaret Schley and Some of Their Descendents. August, 1991: 135 Doubleday Avenue, Gettysburg, PA, 17325. Including the files of the late Jacob Mehrling Holdcraft and the files of the late Judge Edward S. Delaplaine, compiled with the assistance of Mary Ann Frank; p. 5〕。ヨハン・トマス・シュライの息子の1人、ジョージ・ジェイコブ・シュライ大佐は大陸軍のメリーランド部隊で仕えた〔Schildknecht, above, p. 5.〕。戦後、ヘシアン連隊の兵士達は故国に戻る術もなく、町に留まって地元の者と結婚し、ドイツ人としての一体性を強めた。後に、トーマス・ジェファーソン大統領がボルティモアからミズーリ州セントルイスに至るカンバーランド道路建設を発注したとき、その「ナショナル・パイク」はフレデリック市のパトリック通りに沿って走った。 フレデリックは当所から重要な市場の町に成長したが、19世紀初めの3分の1の間、金、銅、石灰石、大理石、鉄などの鉱物を生産してアメリカ合衆国でも有数の鉱業地帯にもなった。アメリカ独立戦争のときは既にサーモントの町近くにあるカトクティン・ファーネスは製鉄業の重要な場所となっていた〔J. Thomas Scharf, History of Western Maryland, Vol. I, Philadelphia: Louis H. Everts, 1882, p. 629.〕。 アイルランドのジャガイモ飢饉から逃げてきた最初のアイルランド移民の波は1846年にフレデリック市に入り、シュライ家の指導的メンバーがアイルランドからのウィルソン家の者と結婚した。その結果として、シュライ家の多くの者がカトリックに改宗し、フレデリック市の住人はそれまでドイツ語を喋っていたものを、この頃初めて英語を話すようになった。19世紀を通じてフレデリックはその宗教的多様さで知られており、その大通りの1つ、チャーチ通りには6棟もの主要な教会が並んだ。カトリックの主要な教会であるセントジョン教会は1800年に建設され、1837年にチャーチ通りの北1ブロック、東2番街(通り向かい)に再建され、現在もその場所に立っている。これらの教会がアパラチア山脈の最も近い尾根であるカトクティン山を背景に、町を見下ろしている。奴隷制廃止運動家の詩人、ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアはフレデリックのこの景色をバーバラ・フリッチーへのその詩に詠んだ。「フレデリックの群がる尖塔はメリーランドの丘に緑の壁を背にして立つ」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレデリック (メリーランド州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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